解説

『熊野から』3部作を完成させると田中千世子監督は心のありったけを熊野(くまの)修験(しゅげん)の記録にかける。

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山は神なり。

那智山(なちさん)(せい)(がん)渡寺(とじ)の高木(りょう)(えい)導師の率いる修験者たちと一般参加者、そして熊野修験復活を支えた新宮(しんぐう)山彦ぐるーぷを中心とするサポーターたちの活動がスクリーンに息づく。

撮影は2014年から田中とともにじっさいに熊野修験に参加した鈴木一博が敢行。捨身(しゃしん)(ぎょう)で有名な西の覗きで絶壁に身をさらす鈴木の姿を撮影したり時に録音も兼ねる山本大輔。山本は修験道とダンテの神曲をコラボした立川寸志の創作落語「ダンテ天狗」など追加撮影も担当し、2022年に行われた若手修験者たちの峯入りの撮影には御木茂則の応援も加わった。

那智山青岸渡寺の高木亮英導師(撮影時は副住職、現住職)は、熊野の地に生まれた人間として熊野修験復活を願う。平安時代からさかんだった熊野詣(くまのもうで)は、皇族や貴族から庶民にまでひろがるが、修験は参詣とは別のきびしい山岳修行をともなうものである。

修験道の開祖は7世紀、飛鳥(あすか)時代の(えんの)小角(おづぬ)(えんの)行者(ぎょうじゃ))という()()(そく)(民間の宗教者)である。「続日本紀」によれば葛城(かつらぎ)地方に生まれた役行者は、修行を積み呪術にたけていた。役行者は熊野の地をもっとも修行にふさわしい場所とみたため、役行者が修行したとされる聖なる75の(なびき)が後世に伝えられていく。南の熊野から大峯を越え吉野に向かう(じゅん)()と、北の吉野から熊野に向かう逆峯(ぎゃくふ)がある。どちらも熊野修験と呼ばれるが、この映画では高木亮英導師が復活させた熊野から吉野への順峯をさす。

富士山をはじめ日本には霊山と呼ばれる多くの山がある。東北の羽黒山、九州の英彦山(ひこさん)など各地で修験が行われ、修験道は中世にピークをむかえるが、江戸時代になると民間信仰として世俗的な傾向を強める。それに反発してきびしい修行への渇仰も生まれ、明治のはじめに(はやし)実利(じつかが)行者が登場。明治政府は明治元年(1868年)神仏分離を法令で定め、修験宗は明治5年(1872年)に禁止される。だが、明治19年、一時廃寺となった吉野の(きん)()山寺(せんじ)が仏寺として復帰する。祈祷などを禁止する法令が次々と出たため、修験者が存続することはむずかしかったが、民間の講の登拝活動はつづき、かつての修験の寺で修験の行事も行われた。それでも修験に関する資料の多くは失われる。第2次大戦後、吉野の金峯山寺はいちはやく修験の復活にとりかかる。熊野では修験のルートが荒廃し、(なびき)も不明の箇所がいくつものこった。熊野修験復興は修験のルネッサンス、高木亮英導師の志に賛同した新宮山彦ぐるーぷが藪をひらき、道の整備をする。復興から35年がたち、コロナ禍を経て法螺貝が鳴り響く。

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