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田中千世子監督の公開日記

【田中千世子の公開日記】 6月13日(火)  9日(金)に東京上映が終了して、17日(土)から大阪のシネ・ヌーヴォで始まります。初日のトークで大阪に行く前に新宮市に寄ります。いつもは市内のビジネスホテルに泊まりますが、ふと思い立って高田グリーンランドに久しぶりに泊まることにしました。新宮市内から自転車で30分ほど、ここから本宮までは1時間ちょっと。持って行くのはロードバイクではなくマウンテンなので、もうちょっと時間がかかるかもしれません。  東京での上映はいつも以上にコアな観客の方が目立ちました。一番はなんと言ってもイタリアから奥の細道の東北の旅をグループを率いて実践したイタロ師でしょう。イタロ師はダンテと修験をからませたことにとても興味を持ってくださいました。イタリア人たちが来館した日に私はトークにイタリア語もまじえて、「奥の細道」をたどるのは、日本文化の伝統であること。西行の<旅>を宗祇がたどり、さらに彼らの<旅>を芭蕉がたどることに意味があるのです。同じことが修験にも言えます。役行者が修行したところ(奥駈けの75の靡き)をたどることに意味があるのです。イタリア語でもそのように言ったつもりでしたが、イタリア人たちはじっとしているだけで、表情からリアクションは読み取れませんでした。きっと私のイタリア語が通じなかったのだと思います。 6月8日(木)  午前中、渋谷は気持ちよく晴れていました。  今日のゲスト・トークは映画の完成に向けてプロデューサーとして協力してくれた田中文人さんです。文人さんには『みやび 三島由紀夫』(05年)でも、助監督としてロケ撮影など、いろいろお世話になりました。  世界遺産になった熊野の参詣道はいろいろな道があること、山だけでなく海もまた熊野であることを文人さんは話されました。今まで撮影した映像を一緒に見て.構成について相談を重ねた時に、「熊野修験」とは別の「葛城二十八宿修行」もできれば映画に入れたかったけれど、映画が4時間ほどになりかねないので、断念したと文人さんが説明するのを聞きながら、本当に残念に思ってくれているのだな、ということがわかりました。葛城修行の撮影では春の桜、秋の彼岸花などをとらえていたので、ひときわ自然の美しさが強調されていました。「葛城二十八宿修行」は友が島に渡った修験者一行が巨大な一枚岩をロープ頼りに波の打ち寄せる下から上へと登ります。私も登りました。感無量のすばらしい体験でした。この「葛城二十八宿修行」はDVD発売したときの特典映像としてご紹介する予定です。  明日はいよいよ東京上映の最終日です。  そして6月17日(土)から大阪の上映が始まります。 6月4日(日)  イタロ・ベルトラーシ師ご一行がシアター・イメージフォーラムにいらっしゃいました。前日、映画の背景となる明治時代の修験道禁止と1988年の熊野修験復活のことをイタリア語でイタロさんにメールでお送りしておいたところ、4日の朝、一行の通訳をしているアラトさんから映画館はどこにある?との電話。住所を伝えたら、時間までにみなさん到着しました。  イタロさんは映画にも登場するダンテ「神曲」研究家のジュゼッペ・ロンゴ教授の古くからのお知り合いです。『修験ルネッサンス』の前につくった関係者向けの『熊野修験』のDVDをロンゴ教授にお見せしたら、ぜひイタロさんと会うべきだと言われ、来日にあわせてお目にかかることが今年のはじめにはきまっていました。イタロさんからは御著書の「GIAPPONE E CHINA UN VIAGGIO ZEN」が私のところに送られてきました。反体制時代に東洋の哲学と出会ったことが最初に書いてありました。  『修験ルネッサンス』は日本語だけの映画で、字幕はまるでないのですが、イタリア人たちは感じるところがあったようです。イタロさんは昔大峯を歩いたこと、西の覗きで身を乗り出す捨身行を思い出したとおっしゃいました。ダンテと修験を関係づけたことも納得していただいたようです。 6月3日(土)  台風による風雨が西日本と東日本に被害をもたらし、今日も各方面に影響が出ました。  トークショーの畔蒜多恵子さんは千葉に住んでいますが、浦安なので交通に支障はなく、早めに到着しました。簡単な打ち合わせをして、映画のために作成した林実利行者の絵からお話していただきました。 明治時代の林実利行者は肖像画があります。それを元に畔蒜さんはアニメのなかに実利行者の肖像画を入れた工夫を語ります。那智の滝の実写のよこに肖像画を配したのは、実利行者が座禅を組んで入水したことを暗示するためであった、と。  ダンテの顔も畔蒜さんは以前描いています。ボッティチェリの描いた絵をもとにしました。2021年に練馬のギャラリー古藤で畔蒜さんを誘ってダンテ祭を催した時に描いてもらったものです。ウィリアム・ブレイクが「神曲」のための挿絵を描いていますが、岩山を登るダンテの構図を元に冷泉為恭の「山越阿弥陀図」の阿弥陀様を合体させたものも畔蒜さんは描いてくれました。これらの絵はダンテ=修験者という解釈とともに映画の中で紹介されます。  明日はイタリア人のグループが来館するかもしれません。世界の山々にのぼり、日本の修験をはじめさまざまなスピリチュアルな体験を現代人にすすめるイタロ・ベルトラーシ師が20人ほどのイタリア人を率いて芭蕉の旅(「奥の細道」)を追慕するために10日ほど前に来日しました。着いた次の日に浅草で一行にお会いして映画にお誘いしたのですが、明日にならないとわかりません。 6月2日(金)  台風による激しい雨の日でした。  成田瀧英行者が修験の姿で登場して、法螺貝を吹き鳴らします。  瀧英行者は板橋区熊野町に住んでいたのがきっかけで熊野に興味を持ち、やがて山と神仏への思いが修験へと結実していったそうです。現在は那智山に住み、月に1度、和服の所作の講師の仕事で関東に来るそうです。 瀧英「修験は古くは山岳修行から始まりました。熊野修験は大峯奥駈けが年4回に分けて行われます。冬に48滝をおまいりする修行もあります。山の気をもらう。そしてそれを里(一般)の人に還元していくことが大事だと思います」  瀧英行者はトークの後、車で熊野に戻ります。明日は奈良県下北山村の前鬼で法要があるので、それに参加するそうです。前鬼は役行者に従った鬼の夫婦の前鬼・後鬼の子孫が代々住んだ場所と言われています。

解説

『熊野から』3部作を完成させると田中千世子監督は心のありったけを熊野(くまの)修験(しゅげん)の記録にかける。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 山は神なり。 那智山(なちさん)青(せい)岸(がん)渡寺(とじ)の高木亮(りょう)英(えい)導師の率いる修験者たちと一般参加者、そして熊野修験復活を支えた新宮(しんぐう)山彦ぐるーぷを中心とするサポーターたちの活動がスクリーンに息づく。 撮影は2014年から田中とともにじっさいに熊野修験に参加した鈴木一博が敢行。捨身(しゃしん)行(ぎょう)で有名な西の覗きで絶壁に身をさらす鈴木の姿を撮影したり時に録音も兼ねる山本大輔。山本は修験道とダンテの神曲をコラボした立川寸志の創作落語「ダンテ天狗」など追加撮影も担当し、2022年に行われた若手修験者たちの峯入りの撮影には御木茂則の応援も加わった。 那智山青岸渡寺の高木亮英導師(撮影時は副住職、現住職)は、熊野の地に生まれた人間として熊野修験復活を願う。平安時代からさかんだった熊野詣(くまのもうで)は、皇族や貴族から庶民にまでひろがるが、修験は参詣とは別のきびしい山岳修行をともなうものである。 修験道の開祖は7世紀、飛鳥(あすか)時代の役(えんの)小角(おづぬ)(役(えんの)行者(ぎょうじゃ))という優(う)婆(ば)塞(そく)(民間の宗教者)である。「続日本紀」によれば葛城(かつらぎ)地方に生まれた役行者は、修行を積み呪術にたけていた。役行者は熊野の地をもっとも修行にふさわしい場所とみたため、役行者が修行したとされる聖なる75の靡(なびき)が後世に伝えられていく。南の熊野から大峯を越え吉野に向かう順(じゅん)峯(ぷ)と、北の吉野から熊野に向かう逆峯(ぎゃくふ)がある。どちらも熊野修験と呼ばれるが、この映画では高木亮英導師が復活させた熊野から吉野への順峯をさす。 富士山をはじめ日本には霊山と呼ばれる多くの山がある。東北の羽黒山、九州の英彦山(ひこさん)など各地で修験が行われ、修験道は中世にピークをむかえるが、江戸時代になると民間信仰として世俗的な傾向を強める。それに反発してきびしい修行への渇仰も生まれ、明治のはじめに林(はやし)実利(じつかが)行者が登場。明治政府は明治元年(1868年)神仏分離を法令で定め、修験宗は明治5年(1872年)に禁止される。だが、明治19年、一時廃寺となった吉野の金(きん)峯(ぷ)山寺(せんじ)が仏寺として復帰する。祈祷などを禁止する法令が次々と出たため、修験者が存続することはむずかしかったが、民間の講の登拝活動はつづき、かつての修験の寺で修験の行事も行われた。それでも修験に関する資料の多くは失われる。第2次大戦後、吉野の金峯山寺はいちはやく修験の復活にとりかかる。熊野では修験のルートが荒廃し、靡(なびき)も不明の箇所がいくつものこった。熊野修験復興は修験のルネッサンス、高木亮英導師の志に賛同した新宮山彦ぐるーぷが藪をひらき、道の整備をする。復興から35年がたち、コロナ禍を経て法螺貝が鳴り響く。